カンテレ「NEWSランナー」の阪神・淡路大震災30年特集です。1995年の避難所の映像から2024年の能登半島地震までが映っていました。
1995年1月17日、神戸の小学校。廊下・階段・教室まで避難者で埋め尽くされ、最低気温1度。これは30年前の証言です。しかし、2024年1月1日の能登半島地震で、私たちが暮らす珠洲市でも、同じ光景が繰り返されました。学校の教室に雑魚寝、水なし、食料なし、お正月で極寒。
阪神(1995) → 中越(2004) → 東日本(2011) → 熊本(2016) → 能登(2024)。
5回の大災害を経ても、避難所の現場は30年前と大差ありません。なぜでしょうか。
その前に、国連は「スフィア基準」という国際的な人道支援の最低基準を定めています。トイレは50人に1基、1人あたり最低3.5m²の生活空間、給水は1日15L以上——これらは慈善ではなく、被災者が当然に受け取るべき権利として明文化されています。国連人権理事会も、災害時の避難者の尊厳・プライバシー・安全は基本的人権であると繰り返し発信しています。
しかし、日本の避難所は、この国際基準を満たしていません。にもかかわらず、それが「仕方ない」「災害だから」「みんな我慢している」と受け入れられ続けてきました。世界の常識(権利)と、日本の常識の間には、どうして30年経っても埋まらない断層があるのでしょうか。結果として何を生んだのでしょうか。
ですが、この「権利」という言葉も、被災地では違う顔を見せることがあります。権利だから行政が満たすべき、権利だから誰かが届けてくれるはず、権利だから待っていればいい。そう考えているうちに、いつの間にか依存になっていました。30年間、これを繰り返してきた気がします。
行政の防災対策や避難所の人権について提言したいとは思いません。私が思うのは、自分自身で自立した避難のかたちを考える時期に来ているんだと思います。
支援が届くまでの空白時間、被災者は「我慢」を強いられます。行政の対応能力を超える災害が起きるたびに、同じ光景が繰り返されました。それでも「支援が来ない」ことへの怒りと絶望が、被災地の記憶に積み重なります。行政の対応能力を超えているのにもかかわらずです。
そして、次の災害が来ます。また同じ議論が始まります。「行政は何をすべきか」から。他力本願の30年が終わらない限り、避難所は変わりません。
災害の話題になると、多くの人が次のように考えているようです。
- 「行政は何をしているのか」
- 「税金を払っているのだから、当然行政が助けるべきだ」
- 「自助・共助・公助と言うが、結局は公助が動かなければ」
その気持ちはよくわかります。当事者になれば、なおさら切実です。しかし、この前提だけで思考が止まってしまうと、私たちは同じ場所を回り続けることになります。以前、私は地域コミュニティの防災責任者だったことがありますが、住民の中には防災活動=救援や支援を優先的に受けるにはどうしたらいいかを考える人も多かったです。

行政の対応には物理的な限界があります。道路が寸断されれば物資は届きません。指揮命令系統は災害初期には機能しにくい状態になります。そもそも担当職員も被災者です。そんな中で行政に迅速な支援を求めるのは無理筋です。行政に災害への備えを求めることは必要です。しかし、これからはそれだけに頼らない選択肢を、被災者の側から作り出す必要があります。
リブート珠洲が考える「MY避難所」。MY避難所とは、行政の避難所開設を待たない、自分と大切な人のための自立型避難拠点のことです。
- 自宅を、車を、庭を、地域の空き地を、いざという時の避難拠点にする発想
- 水・トイレ・熱源・情報・食料を、外部依存を最小化して確保する仕組み
- 「我慢する場所」ではなく「暮らしを続ける場所」としての避難のかたち
- 行政の支援が届くまでの空白時間を、自分たちで埋められる備え
- そして、余力があれば近隣に手を差し伸べられる拠点性
「自助」と言うと自己責任論に聞こえてしまう時代ですが、MY避難所はそれとは違います。権利者としての被災者が、尊厳ある避難を自分の手で確保するための、能動的な準備のことです。
行政に求めるべきことは求めます。同時に、自分たちでできることは自分たちでやります。両輪で回すことでしか、30年変わらなかった避難所の光景は変えられません。内浦防災フィールドで、一緒に考えたい。
被災地・珠洲の現場で、この問いに向き合う場を作りました。内浦防災フィールド。2026年9月オープンを目指しています。MY避難所というテーマに、完成形はありません。だからこの場所も、オープンしてからも永く作り続けていくことになると思います。
企業のBCP(事業継続計画)やBSR(企業の社会的責任)としての防災研修も、根っこは同じだと考えています。行政や外部支援を待つ発想だけでなく、自分たちで空白時間を生き抜く力を備えるという軸を、企業研修にも置いていきたいです。
内浦防災フィールドは、きれいに整えられた展示施設ではありません。実際に被災地で使われ、試され、改良されてきたもの。体験から被災者が手作りで考案したものなど、が集まるユニークな防災フィールドです。見て、触れて、体で学ぶ。ここでの一つひとつが、次の災害を生き抜くための備えになればいいなと思います。
次の30年、私たちはどんな避難所を作るのでしょうか。「我慢」を美徳にしない避難のかたちを、被災地から一緒に考えませんか。
内浦防災フィールドで、お待ちしています。