「避難所」だけが避難生活ではなかった
2024年1月の能登半島地震では、テレビや新聞が伝える「避難所」の風景がすべてではありませんでした。指定避難所の外で、それぞれの事情を抱えながら生き延びた人たちが、数字にすると避難所避難者と同じか、それ以上の規模で存在していたのです。
石川県の調査によれば、発災1ヶ月後の時点で在宅避難者は少なくとも2,800人余り、2ヶ月後には4,500人超に達し、実際にはさらに多いとみられていました。珠洲市を含む5市町を対象にした県の実態調査では、3月末時点で在宅被災者が5,483人に上り、これは同時期の避難所避難者の約7割に相当する規模でした。
指定避難所の「外」にいた人たちは、大きく次のような場所で生活していました。
自宅(断水・半壊の中でも)
最も多かったのが、損壊した自宅にそのまま留まる「在宅避難」です。断水が続く中、給水所や井戸水、「山水」と呼ばれる湧き水を使いながら生活を続けた人が多くいました。応急危険度判定で「危険」と判定された自宅にとどまり続けたケースも報告されています。
在宅避難を選んだ理由は、感染症リスクを避けたい、家族の介護、農業で家を離れられない、プライバシーを確保したい、共同生活のストレスを避けたい、など人それぞれでした。
ビニールハウス・納屋・車中泊
珠洲市内では、自宅の農業用ビニールハウスにテントを張って避難生活を送った例が報告されています。2棟のビニールハウスのうち1棟をキッチン・食事スペース、もう1棟を寝る場所として使い、当初は約30人が生活していたという記録もあります(産経ニュース)。損壊を免れた納屋や離れで生活していた人も多く、車を寝床にする「車中泊」を選んだ人もいました。
自主避難所
行政が指定していない地区集会所や農業用倉庫が「自主避難所」として使われました。珠洲市では指定避難所以外の79カ所がこうした場所で、その全体像を市が詳細に把握できたのは地震から約2週間後でした。
なぜこれが「見えざる災害」になるのか
在宅避難や車中泊、自主避難所での生活は、行政の目が届きにくく、支援が遅れがちです。珠洲市は高齢化率51.7%と石川県内で最も高齢化が進んだ自治体の一つで、独居高齢者が「大丈夫」と声を上げられずに孤立するケースが繰り返し指摘されました。
支援団体や自治体は、これらの人たちを取り残さないために全戸訪問を積み重ねてきました。珠洲市では発災直後から在宅全戸訪問が続けられ、延べ2万回以上の個別訪問が実施されています。それでも「支援が来るまでの空白時間」を、自分自身の備えでどう埋めるかという課題は解決されないまま残りました。

リブート珠洲が考える「MY避難所」
奥能登防災フィールドが中心テーマとして掲げているのが「MY避難所」という考え方です。
これは、行政の避難所開設や外部支援を待つだけでは埋まらない災害初期の空白時間を、自分・家族・地域・企業が尊厳を保って生き抜くために、平時から準備しておく自立型避難拠点の発想です。
能登半島地震で起きたことは、まさにこの空白時間の現実そのものでした。
- 道路が寸断され、支援物資が届くまでに時間がかかった
- 職員自身も被災者であり、初動対応の余力が限られた
- 仮設トイレや仮設住宅の整備には時間差があった
- 指定避難所は物理的に人数を収容しきれなかった
こうした空白を、被災した人たちは自宅、ビニールハウス、納屋、車中泊、自主避難所という形で、自分たちの手で埋めていました。これは行政や避難者の権利を否定する話ではありません。「誰かが満たしてくれるはず」という依存だけに留まらず、支援が届くまでの水・トイレ・熱源・情報・食料・寝る場所を、自分の場所で確保する発想へ意識を移していくことが、MY避難所の出発点です。

奥能登防災フィールドで実物から学ぶ
奥能登防災フィールドは、能登半島地震で被災した珠洲市宝立町南黒丸の敷地そのものを使い、整えられた展示施設ではなく、防災対応車両、エアテント、ビニールハウス、シェルター、備蓄品といった実物を通じて、限られたインフラの中で人がどう生き延びるかを学ぶ場です。
ここで扱うテーマは、能登半島地震で在宅避難者や車中泊避難者が実際に直面した課題と重なります。
- 学校避難所という仕組みの限界
- プライバシーの確保
- 断熱・遮熱(暑さ・寒さへの対応)
- 水の確保と衛生
- トイレの問題
- 車中泊の実践とリスク
- 電源・情報通信の確保
- 企業のBCP(事業継続計画)・BSRへの接続
「行かされる場所」としての避難所ではなく、「自分で決める・自分で作る・自分たちで守る」避難のあり方を、実際に見て、触れて、体で学べる場所にすることを目指しています。
奥能登防災フィールドは2026年9月のオープンを予定していますが、MY避難所というテーマに完成形はありません。開所後も、設備や展示、体験を更新し続けながら、能登でまだ記憶が残る時期にMY避難所のコンセプトを形にしていきたいと思います。