宝永大噴火(1707年)は、富士山の東側地域に深刻な被害をもたらしました。噴火による火山灰やスコリア(軽石)が広範囲に降り積もり、農地や水路が埋没し、飢饉や経済的困窮が発生しました。この噴火は約2週間続き、総噴出量は約17億m³に達しました。火山灰は江戸にも降り積もり、広範囲で農地が埋没して耕作不能となりました。水路が塞がれたことで水供給が断絶し、住民の生活基盤が崩壊しました。
小田原藩は、被害の深刻さを前に自藩の力だけでは復興が困難であると判断し、領地の半分を幕府に差し出して救済を求める決断を下しました。これは当時としては非常に大胆な措置で、小田原藩がいかに深刻な状況に直面していたかを示しています。
幕府はこの決断を受け入れ、直轄領化した地域に対して直接的な支援を実施しました。幕府代官の伊奈忠順らが現地に派遣され、住民へ多面的な支援策が展開されました。具体的な補償としては、被害家屋への「家作御救金」がありました。須走村では焼失した家屋に対して1坪あたり金1両(現代価値で約10万円前後)、壊れた家屋にはその半額程度が支給されました。
また、幕府や小田原藩による緊急の食糧支援として救恤米が配布されました。さらに燃料不足への対応として薪や炭、農業再開のための農具、防塵マスクや清掃用具なども提供されました。
幕府は全国諸藩から石高100石あたり金2両の高役金を徴収し、その資金を復興支援に充てる全国規模の協力体制を構築しました。これらの取り組みにより、小田原藩および周辺地域は徐々に復興への道筋を歩み始めました。酒匂川などで河川浚渫工事を実施し、岡山藩など複数の外様大名にも協力を命じました。農作物収穫量が噴火前の水準に戻るまでには約90年という長期間を要しました。
この歴史的事例から得られる教訓としては、「地域特性を踏まえた復旧・復興」や「長期的視野での防災計画策定」、「金銭補償だけでなく食糧・生活物資・労働力支援など多面的なサポート体制構築」が不可欠であることが示されています。特に小田原藩の判断は、地域の限界を認め、外部からの支援を求める勇気ある決断の例として大変貴重です。これらの教訓を活かし、防災意識向上と事前準備体制整備を進めることが今後さらに求められます。
被災地の復興が進む中で、小田原藩領の一部は1716年に幕府から返還され、残りの村々も1748年に戻りました。しかし、領地が返還されても幕府の支援が続き、小田原藩は噴火後の復興において多くの困難に直面しました。その影響は長期間にわたって続きました。